散月
短編 / 2004年9月 / 月の無い夜、霧の夜。赤い橋の欄干で、ただ待っている。
 水面に映る月に手を伸ばしても届かないように、永遠に無駄なことなのかも知れない。全てはただの錯覚で、石を投げつけて水面の月をバラバラに砕こうとするのと同じように、無駄なことをしているのだろう。

 この場所に留まっていたところで何になるのだろうか。ここにいたところで二度と会えないことはわかっている。それでも俺がここにいるのは、他に彼女との接点を見出せる場所を知らないからだ。

 もう一度、月の無い夜にがくれば、彼女に会うことができるのだろうか。――馬鹿げた妄想だ。同じ場所、同じ時間にずっと待っているが、ここ数日、それらしき女には出会うことは無かった。顔の見えない、俯き歩く人々が橋を渡っていくだけ。他にはなにもなかった。

 なぜこうも一度視線を交わしただけの女に惹かれているのだろうか。これが一目惚れというやつか。でも何か――違う気がする。なんだろう。大事なことを忘れているようで、気分が落ち着かない。

 ただ、待っている。朱色の橋の欄干に背をあずけて、あの女を待っている。

 橋の反対側は、霧に阻まれてなにも見えない。ここの人通りはそう多く無いようだが、あちら側から来た人は今のところ彼女だけだった。赤い着物、黒すぎるほどの黒髪。日本人形を連想させる、華奢で小柄な女。幼い顔立ちだったが、不思議と子供には見えなかった。それは彼女の目があまりのも――そう、こちらを見る目があまりにも深く、悲しみの色に満ちたものだったからだろう。

 空に浮かぶ金色の三日月が、唯一の明かり。星は一つも見えない。見上げればそこにあるはずの夜空は、暗い雲によって隠されている。その中で一つ、金色の三日月だけがこちらを見ている。

 肌寒い。湿っぽくて、妙に寒い。明日はたぶん、月明かりさえもなくなってしまうのだろう。そうしたら彼女に会った日のように、提灯の一つも持っていけばいい。肌寒いのは、まぁ我慢できる。ただ耐えられないのは、彼女に会えないかも知れないという想像をしてしまったとき。頭を振り、嫌な想像を頭の中から追い出した。

 ふたたび、待つ。何をするわけでもなく、ただひたすら彼女を待っている。

 ――――体が重い。眠っていたのだろうか。もういつからこうしているのか、わからない。覚えているのは俺は彼女を待っているということだけ。こうして霧の中に目をこらし続けていることが俺の存在意義であるかのように、ずっとそうしている。

 川の流れる音が聞こえる。ざぁざぁと、無機質な音。同じ水が同じように流れているかのように、この音は途切れない。橋の下から響くそれは、誰かの呟き声が混じっているように思えた。たぶん気のせいだろう。覗き込んでも、見えるのは黒い水面と、そこに映る月だけだ。

 ――どれぐらい、待ったのだろう。細かいことは思い出せない。

 月は、もういない。俺の手には提灯がある。大丈夫。この明かりさえあれば彼女を見つけることはたやすいし、きっと帰ることもできる。

 ――――帰る?どこに?誰が?

 なぜ、帰るなんて思ったんだろう。俺は彼女を待っているというのに。彼女に会えなければ意味がない。そのためにずっと待っているんだから。

 ――ここは暗い。橋の向こう側に何があるかなんて最初から見えないし、こっち側に何があったかなんてもう忘れた。もともとどうでもよかったんだから、覚えているはずもない。

 頭の中にあるのは、彼女に会いたいという思いだけ。ほかはもう、どうでもいい。

 ……どれくらいの時間が経ったのか、わからない。一時間ほどしか待っていないような気もするし、何週間も待っているかのようにも思える。手にした提灯の火は変わらず、暖かみの無い無機質の光を放っている。

 どいつもこいつも「何もかもどうでもいい」というかのような雰囲気で歩いていた。俯き、その顔を隠して歩く姿は、ひっそりとしたというより、ただ暗く、無気力感に満ちていた。彼等がなにを思って歩いているかとか何の用事で向こう側へわたろうとしているのかはどうでもいい。彼女以外に興味は無い。橋の向こうに何があるのかは知らないが、ろくなものではないだろう。何人か向こう側に歩いていったが、誰もこっち側にこないし、戻ってきた奴もいない。奇妙といえば奇妙なのかもしれないが、俺にはどうでもいいことだった。

 月のない夜。深く濃い霧のなか、赤い着物の女を待つ。約束はしていない。会えるという確証も無い。――ただ、待っている。

 橋の欄干に背を預け、ただ待っている。橋の下には川の音、周りは肌を濡らす冷たい霧。ざぁざぁという音だけが、この空間を支配している。

 からんころん、という乾いた音が聞こえた。音はゆっくりと近づいてきて、その主の存在を主張していた。黒。黒い下駄。花柄の赤い鼻緒。着物。赤い、とても赤い、無地の赤い着物。見紛うとことは無い、そう――彼女だった。

 彼女は一人歩いていた。目を奪われる。なんて――――美しいのだろう。流水のような、自然で滑らかな立ち振る舞い。日本人形を連想させる華奢で小柄な女。幼い顔立ちは憂いに満ち、そしてその瞳は俺に向けられていた。

 とても、驚いた。驚いたのは彼女が俺を見たことではない。彼女の瞳に映る色が悲しみの色だけではなく、憤りに満ちた怒りの色をだったからだ。

 瞳の色は黒。深く、暗い色。見惚れていると、無表情だと思い込んでいた彼女はとても怒った様子で俺に語りかけた。

「なぜ、ここにいるのですか――」

 鈴の鳴るような、涼やかで凛とした声。その声を聞いて、俺はとても嬉しい気分になった。
 しかし、何故。何故と聞かれた。何故もなにも、俺は君を待っていた。ただ、それだけだ。

 そのことを伝えると、彼女は悲しそうな顔をした。

「あなたは……」

 そう言って、彼女は口を閉ざした。

 俺は悲しかった。せっかく会えたのに。ずっと待っていて、やっと再会できたというのに、彼女はこの出会いを歓迎していないのだ。

「戻らないのですか」

 唐突に、彼女はそう言った。どこに戻るというのだろうか。戻る場所など無く、どこに戻っていいかもわからない。

「そう、ですね……。だから、あなたはここにいる」

 違う。ここにいるのは、君と会いたかったからだ。そうでなければ他の連中と同じように橋の向こう側へ行っていた。よくわからないが、たしか――そうだったはずだ。

「あなたの目に映る私は、どういう姿をしているのでしょうか」

 とても美しい。君は美しい。

「わたしが――そう、ですか。きっとあなたには、誰か好きな方がいらっしゃるのでしょうね」

 そうだ。これが恋や愛だというものであるならば、俺は確かに君のことが好きなのだろう。

 しかし、彼女は沈黙して、かすかに頭を振った。なにが――いけないのだろうか。

「私の姿を見て、この場で私を待っていらしたのならば、あなたはここから去るべきです」

 何故、彼女はそんなことを言うのだろう。

 せっかく君を待っていて、やっと会えたというのに、何故俺がここからいなくならなければいけないのか。もとから他に行くところなんて無いし、どこにも行けないというのに。

 彼女は再び頭を横に振る。今彼女の瞳に映るのは怒りではなく、哀れみに近いものだった。

「霧の向こうには何もありません」

 そう語る彼女の声が胸につきささった。なぜだろうか。なにか大事なことを忘れていて、思い出さないと取り返しのつかにことになる。――そんな気がする。

「あなたは……まだここに来るべきではありません。いえ、本当は誰も……こんなところに来ないほうが良いのです」

 何故、そんなことをいうのだろう。俺は君に会う為にここにいるのだし、それにこの橋を渡る奴はけっこういるじゃないか。

「霧の向こうに行けば、もう何も感じなくなるでしょう。嫌なことも、楽しいことも。――そうなれば楽になれます」

 彼女は、何を言っているんだろうか。この橋の向こう側、霧の奥には何があるというのだろうか。今まで考えてもいなかったが、そもそもここはどこなんだろうか。なんで、俺はここにいるんだろうか。どうやって、こんなところに来たんだろうか。

 いつの間にか川の音がしなくなっていた。肌寒さは相変わらずだが、不思議とそれは気にならなかった。彼女が目の前に立っているからだろうか。

「……帰ってください。私は、霧の奥へ行く人たちを見ているのが辛い」

 君は、いったい誰なのだ。どこかで会ったことがあるような気がする。ここより遠く、でもどこか本当は、気付かないくらい近いところ。なんだろう。俺は混乱している。知らないはずの言葉が出てきては消えていく。帰れと言われても、思い出せない。まて。本当に――思い出せないのか?

「私は――誰でもありません。あなたの見ている私に本当に会いたければ、早く帰ってください。」

 そう言った彼女の表情は厳しく、なぜ彼女が俺に怒っているのか理由はわからないが、なんとなくそれが伝わってきた。哀れみと怒りと悲しみと。その全てを内包し、彼女はそこに立っている。そっと近づいた彼女は、俺の額に手を当てた。彼女の手はやわらかかったけれど、冷たさも暖かさも無く、なんの匂いもしなかった。

 とつぜん、千切れた風景が頭に浮かぶ。どこだろうか。思い出せないが、これはとても大事なこと。ああ――これは。全て忘れようとして、頭の片隅からゴミ箱に放り投げた風景だ。一切合財を放り投げて、どうでもいいって思って投げ出してしまった場所。

 細切れの記憶。なぜここにいるのか、なんで彼女を待っていたのか、どうして俺はこの先に行く気がなかったのか――。なんだろう、思い出せないはずなのに、ほんとうは全て知っている。知っているのに蓋を閉じようとしたから、中のものがあふれてどうしようもなくなってるのだ。

「ほんとうは、帰りたいんでしょう。――あなたは好きな人がいて、でも何もかもうまくいかなかった。自分の意識に蓋をしてしまったけれど、今はそれに鍵をかけるかどうか迷っている」

 意味がわからない――わからないけど、何かを思い出していた。

 記憶の断片。月の無い夜、どこか見たことのある橋の上で、俺は泣いていた。涙を流していたかは覚えていないが、心が慟哭していたのであれば、それは泣いていたということだろう。ままならない現実に嫌気が差し、自分と自分を取り巻く世界にどうしようもなく失望していた。それが絶望でなかったのは、きっと彼女のおかげだろう。赤いワンピースがお気に入りの、華奢で小柄な、よく笑う女の子。

 きっと、嫌なことがいっぱいあったんだろう。忘れたいこともいっぱいあったんだろう。記憶の中の自分は姿を見せない月に向かって、一人泣いていた。なにか遠い風景のような、他人を眺めているかのような気持ちで、俺は自分を眺めていた。

 ――――ふと我にかえると、目の前には赤い着物の女がいた。俺には彼女が、悲しくて仕方がないのに、無理して笑っているように見えた。それは俺が見たことのない表情だった。

「あなたはここから帰れる人です。だから――どうか、あなたの居るべき場所に帰ってください」

 そうだ。――帰らなければ。

 ――――なんで、忘れていたんだろうか。なんで、思い出そうとしなかったのだろうか。

 待っている人がいるのか、どうして俺はこんなところにいるのか。ここが一体どこなのか、どうしてすべて忘れてしまいたいと思ったのか。なにも思い出せないけれど、これだけはわかる。俺は、元いた場所に帰らなければならない。誰でもない、俺自身の為に。

 空を見上げる。そこには金色の満月が、ここにいるのが当然だとでも言うように居座っていた。霧は深く、視界は最悪。それでも帰り道だけは、はっきりとわかる。ここがどこかはわからないけれど、見知った道だった。

 まったく、なんてことなのだろうか。ここは多分、そういういい加減な場所で、一夜かぎりの夢のようなものに違いない。もう多分、訪れることもないのだろう。通り過ぎていた顔の見えない人たち、彼等はどこへ向かっていったのだろうか。俺が知ることではないのかもしれないが、その人たちのことを考えると少しだけ胸が痛んだ。

 なんだろう。体が軽く、すっきりした気分だ。――ああ、これなら迷うことなく帰れる気がする。帰ったら何もかも思い出してしまうのかも知れないが、まぁ、何とかなるだろう。不思議な気分だ。まるでさっきまで頭の中にまで霧が染み込んでいて、それがやっと晴れたような。

 彼女に視線を戻すと、相変わらず悲しそうな顔。しかし、少しだけ彼女は笑っていた。雲から覗く細い光のような、そんな笑顔。

「さぁ、行ってください。もう会えないことを願います」

 そしてそんな――寂しいことを言った。

 君もここから帰ろう。そうすれば、きっと色んなことがうまくいくのに。そう言うと、彼女はまた少しだけ笑ってから、寂しげに顔をふせた。

「私は行けません。ここで生まれ、ここでしか生きられない」

 その言葉に偽りがなければ、それはなんて寂しいことなのだろうか。こんなわけのわからない場所でずっと、生けなければならないなんて。俺には耐えられない生活だろう。そうして彼女の心は悲しみの染まって、その色を隠すこともなかったのだろう。きっとそれは、とても悲しいことなのだろう。

「でも、私は嬉しかった。私と触れ合うことで、見失った道をもう一度歩き出せる人がいてくれて」

 だから、と言って彼女は俺に背を向けて。

「お別れです。会えて――よかった」

 そして最後に、そんなことを呟いた。

 歪む視界。赤い橋が端からくずれては融けて、彼女の姿さえはっきりと捉えられない。空に浮かぶ満月はバラバラに散って、金色の花弁へ姿を変えて空を舞っていた。目に見える世界は、歪んだ抽象画に塗りかえられていく。

 俺は目を閉じて、彼女のことを思った。どこかで会ったことがあるような、でも本当は二度しか会っていない人。ここがどこで、彼女が誰だったのか、結局なにもわからない。だけど、この世界がたとえ幻でも、夢のなかのものだとしても――彼女のことは、忘れたくないと思った。

 そして、彼女のほんの小さな、かすかに見せた笑顔を思い出す。いまの気持ちが薄れて消え去らないようにと、ぎゅっと唇を噛み締めて、俺は目を開けた。

 ――――見知った風景。この世界にはもうとっくにうんざりしている。

 見知った橋の上に、俺は一人立っていた。

 月の無い夜。飾り気のないコンクリートの橋を渡ったら、そこはもういつもの帰り道。

 少しの逡巡のあと、俺は歩き始めた。
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