私と私
短編 / 2004年9月 / 私は私。じゃあ――目の前に居る私は誰なんだろう?
「こんな話、聞いたことない?」

 彼女は悪巧みをするときのいやらしい笑顔で、私にそう言った。

「ある日ある時、ある場所にいたはずの人が、同じ時間に別の場所でだれかと談笑していたり、ある日とつぜん自分が自分の目の前に現れたり。ねぇ、聞いたことあるでしょ?」

 ……無いと言えば嘘になる。ありふれた都市伝説の類だろう。私はこれまでそういった類の話を一切信じていなかったし、信じたくもない。だって、怖い。私は臆病な人間なので、そんな話をいちいち信じていたら夜なんか一睡もできなくなってしまう。

 怪談話の類が大好きな彼女と親友なのは、私の人生の中で一番の謎だ。正反対の私と彼女だけど、何をやるにも二人は一緒だった。彼女はいつも、気弱で引っ込み思案な私の手を引いてくれた。逆に彼女が暴走しがちなときは、私が彼女を諌めるのだ。考えてみると、案外バランスがとれているのかも知れない。私たちの友情は。

 だけどそれとこれとは別だ。私が大嫌いなものを彼女が大好きでも、それはお互いが補い合ってちょうどいいとかそういうことにはならない。ことこういう怪談ものについては特にそう。一方的に私に不利なのだ。

「でね、その――ドッペルゲンガーっていうやつなんだけど、見たら死ぬとか、いろいろな噂があるのよねー、すごくない?」

 ――すごくない。すごくないけど、すごく怖い。誰かたすけて。……いけない。他力本願なのは私の悪い癖だ。困ったときはいつも誰かが助けに来てくれると頭のどこかで思っているらしい。大学を卒業して、まがりなりにも社会に出たというのに、いまだに白馬の王子様に憧れているのだろうか。

 多重存在、ドッペルゲンガー。同一時間軸に存在する別次元の自分、自分という存在の別の可能性、当人の無意識が見る自己の鏡像、自分の姿を模った死神。彼女の話をまとめようと思って頭の中身を整理しようとしたけど、いろいろな話が交錯して、もうなにがなんだかわからない。もともとよくわからない存在なのだから、わからなくて当然なのかも知れないけど。

 夜が更けて、彼女が満足して寝入るまでに、私が半泣きになっていたのは言うまでもない。今度、道端の草むらにバッタでも見つけたら、彼女にしかえししてやろうと思う。私は虫は別に好きでも嫌いでもないのだが、彼女は半径50cm以内に虫がいると絶叫するほど苦手なのだ。ささやかな復讐を胸に誓いながら、布団をかぶる。

 目を閉じて必死に羊を数えるが、ドッペルゲンガーの幻が頭から離れない。しょうがないので、真っ黒なシルエットのドッペルゲンガーのイメージを羊の代わりに数えてみたけど、よけいに怖くなってやめた。今日の夜は、長くなりそうだ。



 ――時刻は深夜二時、私の勤め先であるところのとある零細企業は、率直に言うと、修羅場だった。無茶なスケジュールと無理な労働で従業員16人のうち6人が倒れ、そのうち4人が入院した。私は一応一昨日までは終電で家に帰してもらっていたのだが、もはやそういう状況ではなくなっていた。

 東京都某区、どこにでも見かける雑居ビルの一棟。三階に位置するわが社のオフィスには、現在9人の人間が倒れている。仮眠を取ると言ったっきり起きない人が三人、突然倒れて起きない人が四人。あとの二人は昨日から起きない。体力自慢の大場さんも、鉄の心臓を持つといわれた社長も、起き上がらなくなってしまった。山本さんの兼業主婦で鍛えた体力をもってしても、耐え切れなかったようだ。一応全員脈拍と呼吸に異常はなかったようなので、多分ちゃんと生きているはずだ。

 みんな揺すろうが蹴ろうが起きないので、放っておくことにした。ちなみに蹴ったのは普段から嫌みったらしい専務で、他の人には顔に足跡をつけるような真似はしていない。誰彼かまわず蹴りをいれるほど私は乱暴者ではない。いい機会だったので、専務の額には落書きをしておいた。「肉」じゃありきたりだから、額に第三の目を描いておいた。なんだかインド風な感じでちょっとかっこいい。

 一通り死体(候補)たちにかまけた後、私は仕事に専念することにした。四月は普通だったのに、この五月のスケジュールは異常だった。わが社の命運を決める、大手との大規模な取引。みんなやっきになってなんとかしようとした。わが社ではちょっとどころではなく役者不足なのだが、一度舞台に立ったからには、なんとかしないと財政面でも信用面でもわが社はおしまいなのだ。まさに社運がかかった一大プロジェクトなのである。

 今日の朝一番までに、膨大な書類をまとめて取引先に持っていけば、この仕事は一段落する。まとめて、持っていくことができれば。関係各所との調整やそのた他もろもろは、ここまではなんとかなった。あとは大場さんが書類をまとめて、社長と山本さんが取引先に赴いて、それでなんとかなるはずだった。だけど大場さんが突然倒れて入院し、山本さんも仮眠をとったまま起きないし、社長は廊下で丸くなって寝ていた。

 まともな商社であればこんな状況には陥っていないのだろうけど、いかんせんわが社はよく言えば個性派ぞろい、悪く言えとよせあつめの社員と社長の体が頑丈で威風堂々としているだけが取り柄の三流企業なのだ。自分でもずいぶんなところに入ってしまったと最近感じているのではあるけれど、今は転職をまともに考える余裕さえない。

 そして、私ももうそろそろ限界を迎えようとしている。もともと体力があるわけでもなく、どちらかというと体は弱いほうなのだ。初めて社会に出てから緊張しっぱなしで、さらに今は普段できない仕事まで無理してなんとかしようとしている。幸い、倒れた当人達じゃなければどうにもならない仕事は、全て終わっていた。あとは、そう――目の前にいる高さ一メートルの書類の塔を、なんとかすればいいだけだ。

 ……人間は三日寝ないとダメになるらしい。気付かないうちに眠っていたり、体の機能に異常をきたしたりすることがあるそうだ。体がふわふわ浮いている気がする。大量に摂取したカフェインは一応効いてくれてるみたいで、とりあえず体は動く。とりあえずは。

 猫の手でもハムスターの手でもいいから借りたい。ハムスターはかわいい。あの小さい手で手伝って欲しいが、いかんせん彼等は脳みそとか、社会生活に必要なものが色々と足りていない。書類をリサイクルして寝床にされても私が困ってしまう。そうだ、どこかに小人さんはいないのか。うとうとしている間に仕事を片付けてくれる、北欧あたりの民話に出てきそうな小人さんは――。いけない、思考が脱線した。

 今の私はひどい格好だ。先月までフレッシュな初々しい新入社員だったはずの私は、見る影も無い。化粧を直している暇なんてないし、目の下のくまを気にしている余裕も無い。

「――――ふぅ」

 漆黒の粘液と呼ぶのがふさわしい状態のコーヒーを口に運ぶ。苦味という刺激で意識を繋ぎとめようとしている。一体どのくらいのカフェインを摂取しているのか、計算するのが怖いのでやめておこう。今現在、私はコーヒーを一口飲んだときの一息の間に目を閉じてしまっていてもおかしくない状態なので、ぼけっとしている意識をなんとか繋ぎとめようと必死だ。必死なのだが、そろそろ危うい。

「……はぁ。私がもう一人いたら、まだちょっとはましなのに」

「うーん、そうかもね」

 もう一人。そう、自分がもう一人いれば、まだもうちょっとましなのだ。一人が仮眠を取って、一人が働く。これで睡眠もとれて、仕事も片付いて万事おーけい。商談が円満に終わってプロジェクトが上手くいけば、この苛酷な環境の中で最後までがんばった社員に、社長が臨時ボーナスでもくれるかもしれない。でもやっぱり世の中そんなに都合よくうまくいかないもんなぁ。

「……っていうか、私以外の誰かが大丈夫だったら、私が無理することもないんだけどなぁ」

「たしかにそうなんだよねー、山本さんとかそろそろ起きないかなぁ。そしたら限界です宣言して机につっぷせるのに……」

 気を抜けばどこかに落ちていきそうな意識。とりあえず今は、社長が復活して山本さんをたたき起こすまでの間に、なんとか書類をまとめて取引先にもっていける状態にしないといけない。プレゼン資料を作ることに命をかけているという噂の大場さんならば、3時間あれば片付けられるであろうこの書類の束が私の敵。頭の中には、やらなきゃという義務感と焦燥感、いいからもう休みたいという心と体の悲鳴がひしめき合っている。

「あと少しだし、がんばろ……」

「そうそう、あと一息で終わるもんね」

 私は一人になると独り言をぶつぶつ呟く癖がある。うっかり人前で出るとはずかしいので、普段意識してこの癖が出ないように気をつけている。いまは私以外にこの職場でまともに活動している人はいないので、私は思う存分ひとりごとをぶつぶつ呟いていたわけなんだけれど。

 わけなんだけど、しかし。さっきから、私と会話している声は誰のものなんだろうか。

 声はうしろから聞こえるので、回転イスでぐるっと百八十度回転すれば、後ろの机に座っているであろう誰かの姿を見ることができる。

 さて――どうしたものか。聞きおぼえのある声なんだけど、いまいち誰なのかわからない。知っている声には違いない。うん、思い出そう。消去法で社内の女性をあたってみたけど、記憶の中にある彼女達の声とさっきから聞こえてくる声はいまいち一致しない。

 何か根本的な思い違いをしているのかもしれない。たとえば、もともと私一人が生きてる(あくまで比喩です)んじゃなくて、シャイを通り越して存在感が希薄な澤山さんがずっと仕事をしていたのかも知れない、とか。

 ……ああ、もう!考えるのがめんどくさい。停止しかけた思考回路は長考に向いていない。さっさと振り向いて誰だか確認しよう。今気付きました、みたいなことを相手が察してしまうといろいろと気まずいので、さりげなくボールペンを落としたふりというか落として、あ、みたいな感じで回転いすをぐるっとひねる。

 そして、ボールペンを拾った私が顔を上げて見たものは。 

「私一人っていうのがほんとありえないよね」

 私と同じ服を着て。

「もうほんと限界ですって何回言ったっけ」

 私と顔をして。

「でもほんとの限界っていうのは大場さんみたいな感じかもね」

 私と同じ声で喋る女だった。

「――――――」

「え?なに、そんな顔して」

 え?なに、じゃない。お前がなんなのだ。いみわかんない。なんで私がもう一人会社にいて、与り前のような顔をして仕事をしていなければならないのだろう。

 私は普段落ち着いているほうだけど、その分いちど慌てると収拾がつかなくなるほど慌てる。もう一段階慌てると泣き出すんだけど、それは色々と恥ずかしいから、できるだけそうならないように頑張っているのだけど。

「ていうか顔色やばいよ?大丈夫?」

 なんだか自分と同じ顔に心配されるのはとても複雑な気分だ。

「――――」

 あいにく気の利いた返事もしてやれず、私はもうそろそろ本当に限界だった。

 ああ、疲れてるんだな、私。そんなことを考えながら、意識が薄くなっていくのを感じていた。

 惜しむらくは、このとき私は連日連夜の過酷な労働によって齢22にして女を捨てかけている状態であったこと、それにくらべて奴は私の許容できるボーダーラインである百点満点中七十点の化粧と、しわのないぱりっとしたスーツで完全武装をしていたことだろう。――完敗だった。



 明くる日の夕方、私を目覚めを迎えたのは社長の満面の笑みだった。この人は普段あまりこういった顔をしない。しかし今日は上品な落ち着いた笑顔を浮かべていて、ちょっと気持ち悪い。だって本当に満面の笑みなのだ。

「山原くん!」

「はぃ!」

 全力の声にびっくりして返事が裏返ってしまった。死ぬほど恥ずかしいが顔にださないように努める。

「ありがとう!」

 なにがですか。と思ったけど「……は、はい」と気後れ気味な返事を返した。社長じきじきのお感謝の言葉。これの意味するところは、ようするに――なんとかなった、ってことなんだろうか。

 煎れたてのコーヒーを一口飲み込んで、一息ついた。綺麗にまとまった書類と、よく見知った何かに会った気がすることについてはさっぱり忘れようと思う。がんばったね私。おつかれ私。それだけ疲れてれば幻覚だって見るよね。あれはよーく考えたら夢だな、と余裕が出てきた頭で考える。冷静になってみれば、どうということはない。仕事を片付けていて疲れてて、うたた寝しながら視た夢。

「――――ふぅ」

 修羅場は去った。私は開放されたのだ。一日くらい休暇を取らせてもらって、親友と一緒に温泉旅行でも行ってみようか。それぐらいのごほうびがあってもバチは当たらないと思う。

 そして私は自分のデスクに、何気なくメモ紙が貼ってあるのに気がついた。

 そのメモ紙には、

"おつかれ、私。――――私より"

 ……私はそのメモ紙を剥がした後、ちょっと乱暴にくしゃくしゃっと丸めて、ゴミ箱にぽいっと捨てた。
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