ラーメンとグラサン
短編 / 2004年9月 / あるラーメン屋の屋台を訪れた男の真意とは。
 ぽちょん。半熟卵を入れたスープが小気味よい音をたてる。

「お客さん、これサービス。今夜だけの特別ね」

 俺は湯気の立つラーメンを、目の前の客に差し出した。

 目の前に座っている、この黒ずくめの男。今年の夏はやたらと蒸し暑いというのに、夏黒の長袖シャツに長ズボン。おまけにグラサンまで標準装備ときた。格好は得体がしれないが、ここ最近ほぼ毎日ウチのラーメンを食べに来てくれる。無言でラーメンを食べて無言で帰っていく、なんだか妙な奴だ。だけどきっといい奴なのだろう。まぁ俺からしてみれば、ウチのラーメンを食べに来てくれる客はみんないい奴なのだが。無論、客と呼べないような輩は除いての話だ。

 しかしこのグラサン野郎、今日は珍しくに酔っ払っているらしい。酔っ払いの見本のような千鳥足で現れ、「りゃーうめぇん」という謎の注文を発してから、あらぬ方向に目を泳がせつつ、幸せそうにニヤニヤしながら座っている。心なしか顔も赤い。
 田舎のばあちゃんの『我が家の家訓その一、酔っ払いには関わるな』という言いつけを守って放っておきたいところではある。あるのだが、ここは俺の屋台で、こいつは客だ。まさか目の前にいる客を無視するわけにはいかない。この場にいるのは店主である俺、この酔っ払いグラサン、そして常連の女性客の三人だけ。この酔っ払いは俺の客であり、その相手をするべき人間は、俺しかいないのだ。

「…………うぇーい」

 妙な返事と引き換えに、グラサンの男はラーメンを受け取った。奴の顔は満面の笑み。楽しそうだ。とりあえず注文はラーメンでよかったのだろう。まぁ違ったところでこの様子ではラーメンの種類が判別できるかは怪しいところだ。しかし、普段は生真面目そうな仏頂面で黙々とラーメンをすすっていたこの男、今日のこの酔っ払いっぷりはなんなのだろうか。普段のグラサン真顔とはえらいギャップだ。

 焼き上げた餃子を皿に盛りながら、しげしげと男の顔を見る。幸せそうにラーメンをすすっていたこの男は、不意に顔を上げて俺のほうを見た。

「ぬぁー、おっさんよぉ。……らみろーのりゃーうぇんてなぁよう、どんなあーめんだと思うれ?」

 何語だ。だから酔っ払いは困るのだ。しばし悩んだ後、俺は愛想笑いを浮かべて、てきとうにあいづちを打つ。「う〜ん……どうなんでしょうねぇ?」

「……あ゛〜……」

 男はどんぶりを抱えて唸った。どんぶりに恋でもしたのだろう。暑くなると、こういう輩が増える。ばあちゃんがそんなことを言っていた。俺もそのとおりだと思う。

「ねぇ、ちょっと」

 あきれ顔の俺に、常連客であるところの石場の嬢ちゃんが声をかけてきた。隣で奇怪な音を発している酔っ払いの存在を堂々と無視しているあたり、若いのに度胸が据わっている。

「ねぇってば。おいハゲ!」ハゲはやめろ。この娘は口が悪い。「わたしのギョーザ、まだ?」

 しまった。餃子を皿に盛ってる途中だった。突発的な事態に遭遇したとはいえ。この俺もまだまだ修行が足りないということか。ラーメン屋台歴十五年。もうそろそろ齢四十の大台に乗るが、道はまだまだ遠いらしい。

「ああすまん、今出す。待ってろな」答えて、冷めかけていた餃子に軽く焼きを入れ、嬢ちゃんに出す。

「わーい♪」彼女は、とてもわかりやすい喜び方で餃子を受け取った。

 グラサンの男はいつの間にか背筋をまっすぐに伸ばしてラーメンを食べており、そのラーメンを難しい顔で凝視していた。「……」そんな真剣な顔でラーメンを見つめる奴は見たことがない。虫でも入ってたのだろうか。

「時に、主人よ」

 声がした。はて、誰だろうか。目の前からだ。そこには、こちらに語りかけているグラサンの男の顔があった。

 しゃべった。今奴が人間語をしゃべった。こいつ日本語しゃべれたのか。知らなかった。グラサンで黒ずくめで酔っ払いながらラーメンをすするだけの生き物じゃなかったらしい。あたりまえだ。酔いが覚めたのだろうか。

「はい、なんでしょうお客さん」

「本当のラーメンの話だ。貴殿にとっての本当のラーメンとは何かを聞かせていただきたい。まる」

 こいつまだ酔ってやがる。酔っ払うと唐突にわけのわからないことを言い出す奴はたまにいるが、こいつもそうらしい。本当のラーメンときたか。唐突かつ意味がよくわからない。酔っ払いのたわごとに意味などないのかもしれないが。

 しかしまぁ、まがりなりにもラーメンに関わることなわけで、その道のプロとしてはいい加減な答えを返すことはプライドが許さない。幸いなことに石場の嬢ちゃんは餃子に夢中で、いつもの『なんかおもしろい話』を要求されることはない。たまには酔っ払いにつきあってやるのも一興か。いいだろう、俺とグラサンのタイマン勝負だ。いやまてべつに勝負じゃない。

 そしてこっちが色々考えてるうちに、奴はなにやら語りだした。

「そもそもラーメンとは唯一無二の真理によって構成される一つの世界である。よって宇宙には無数のラーメンが存在している、わけです!わけなんれすよ!!」

 わかった。わかったから黙れ。実にわかりにくい酔い方だ。語尾だけ分かりやすく酔っ払い口調になるのだろうか。わかり易いようなそうでもないような。

「……本当のラーメン。そう、それは流星に似ている。一瞬の煌めき、二度と見ることのできないただ一度だけの星の軌跡。同じ材料のラーメンはままあれど、本当のラーメンはひとつ、ぴゅ」

 ぴゅってなんだ。ぴゅって。たぶん俺は今、ラーメン屋を始めてから一番不可解な問いに直面している。本当のラーメンとはなにか。なんのことはない、酔っ払いのたわごと。そう片付けるのは簡単だ。しかし語りかけるグラサンの真剣な目と、なによりラーメン屋としての俺のプライドが答えを放棄することを許さない。

 ……俺も夏の暑さにやられたんだろうか。しかしそれも無理もないことではないだろうか。夜の町は蒸し暑く、屋台の中はもっと蒸し暑い。これだけ暑ければ人間どうにかなるってもんだろう。頬を伝う汗をタオルでぬぐいながら俺は思考する。

 「……本当のラーメン、ですか?」――本当の、ラーメン。ラーメンはラーメンだと思うが。うーん、と唸る。何なんだろう。

 グラサンに隠された男の瞳を横目で見やり、考える。奴の瞳は目の前のラーメンを貫き、この世の果ての深遠を覗き込んでいるかのようだ。もしかすると、彼はさすらいのラーメン評論家、あるいはラーメン職人なのかもしれない。あるいは彼はラーメンという物体を通して哲学的に世の中を考察しているのかもしれない。ラーメンという既存の概念を通じて、新たな社会構造を見出さんとしているのかもしれない。いやそれはないな。

 脱線する思考を、グラサンの男の言葉が引き戻す。

「ラーメン星の王は言う。ラーメンは世界だと。あなたは世界を創る創造主だ。その創造物であるラーメンは創造主により無限の造形を得る。それは世界の本質だ」

 まったくもって意味がわからない。俺は頭の中でため息をついた。

 オーケイ、わかった。こいつは酔っ払いで、俺は素面。同じテンションではついていけない。じゃあ酔っ払えばついていけるのか、というのはまた別の話だ。シンプルに考えよう。俺はラーメン屋で彼は客だ。そして彼は俺に「本当のラーメンとは?」と問いを発した。俺はプロとして答える。それでいい。

 本当のラーメン。俺にとっての、本当のラーメン。ラーメンラーメン。俺のラーメン。いったん考えだした手前、いまさらさらなかったことにするわけのも悔しいので、とりあえず真剣に考える。しかし、自分にとっての本当のラーメン、自分が目指すラーメンとはどんなものなのか。あらためて考えてみると、これだ、という答えが見つからない。

 グラサンが意味ありげな視線でこっちを見ている。なかなか目障りだ。奴は皮肉げな笑みを浮かべている。意味がわからない。ほんとに目障りだ。俺がラーメン屋でなく超人ラーメン男ならば、一蹴で料理してやったことだろうに。

「故に、問う。主人、あなたにとっての本当のラーメンとは何だ?」

 故に、じゃねぇよ。しかも語尾が普通だ。いや別に語尾はいいんだ。それよりも本当のラーメンのことを考えよう。ラーメンラーメン。……なんだか段々頭が痛くなってきた気がする。

 ――月の明るい今夜。我が城である屋台には常連客とへんな酔っ払い。若い頃、必死で目指していた終着点がここなのだろうか。俺が作っているラーメンは、本当のラーメンなのだろうか。ていうかそもそも本当のラーメンてなんだ。漠然と考えていても答えは出てこない。本当のラーメンというものの定義づけも、奴の問いには込められているのだろうか。

 ……なんだか無駄なことに悩んでる気がするのだが、まぁ一年に一回くらいはこんな日があってもいいだろう。

 ことん。空の皿がカウンターの上に置かれた。石場の嬢ちゃんが餃子を食べ終わったようだ。満足がいったようで、にこにこしながら行儀よくハンカチで唇をぬぐっている。上品なのか下品なのか、いまいち判断に困る娘だ。俺は手際よく水のお代わりを置いてやった。

 そして、ふとあることに気付いた。繰り返す日常のひとコマ、いつもと変わらない光景。変わらない仕草で、いつもどおりに水を出す俺。変わらない笑顔で、食後に一杯の水を飲む常連客の少女。

 ――――ああ、そうか。簡単なことだったんだ。ラーメンを作って、売る。十五年間似たようなことをずっと繰り返してきて、なぜ飽きもしなかったんだろうか。生活する為の手段?いや、それだけじゃない。ラーメンへのこだわり、料理人としてのプライド――何がそれを支えてきただろうか。答えはシンプルで、ひどくあいまいなものだった。そしてそれは心地よく、俺はそれに誇りさえ覚えるのだ。

 ゆっくりと口を開き、言葉を紡ぐ。

「お客さん、本当のラーメンってのはね。
 ――お客さんが食べて満足してくれる、旨いラーメンだよ」

 自分の作ったラーメンを誰かが食う。食った奴の、腹いっぱいの満足顔。「ごちそうさま」の一言。それが心地よくて、俺も自然と笑っている。なんのことはない、ただそれだけのことだ。

 到達点というものはない。一つの味が完成したら、その先を目指すだけだ。しかし、その中でも一つだけ変わらないものがある。それが、俺にとって本当のラーメン。

 沈黙。グラサンは腕を組んでいる。うつむくその顔から彼の感情は読み取れない。

 グラサンが、口の端を動かしてクッと笑う。皮肉げな、それでいて幸せそうな、むずがゆくてつい笑ってしまったといった感じの、なんとも言い難い笑いだった。

「堪能した。釣りはいらない」

 彼はそう言ったあと、見慣れない紙切れを置いて、颯爽と去っていった。男の体が揺れているのは夜風のせいだろうか。夏の風は、暑さを少しだけ和らげてくれた。今年の夏は暑いが、それでも今日の夜は心持ち涼しい気がする。俺はそんなことを考えながら、知らぬうちに笑っている自分に気が付いた。 

 今日も一日が終わろうとしている。退屈な日常は、変化無く特別な不満も喜びもなく、だがそれ故にかけがえのないものなのだ。嫌なことがあった日は落ち込むし、良いことがあった日は少し気分が良い。ただそういう日々が過ごせるといことが、なぜだろう――とても幸せなことに思えた。

「ん」

 男が置いていった紙切れを、石場の嬢ちゃんがつまみあげる。――小切手か何かだろうか。ラーメンの代金を小切手で払う奴は珍しい。珍しいというかおかしい。まあ、たまたま持ち合わせがなかったのだろう。釣りはいらんというのだから、その厚意には甘えておくとしようか。

「これ、小切手ってやつ?なんかカエルとか載っててかわいいんだけど」

 カエル?

「うわ、なにこれ。10000000億円だって。すご。ホンモノなの?」

 なんだ、その――でたらめな金額は。

 しげしげとその紙切れを見まわしている。きっと小切手というものを見たことがないのだろう。もっとも、本物の小切手なんぞ見たことがなくてもそれが何なのかは俺には一発でわかってしまった。

 ――――「子供銀行」。それ自身に刻まれたの文字が、それ自身がナニモノであるかをはっきりと主張していた。少なくとも、小切手ではない。ひらひらと少女にもてあそばれるソレは、正真正銘の紙切れなのだ。

 ――ああ。なんだろう。この気持ちは。怒りとも悲しみともつかない、この複雑な気持ち。とりあえず今日は、もう店じまいにしよう。

 俺の表情から何かを読み取ったのか、石場の嬢ちゃんがニヤニヤした顔をしていた。なんでこういう時だけ鋭いんだろうか。

「――酔っ払いにわざわざ付き合うからだよ」

 まったくもってその通りだった。そして、ばあちゃんの言葉を素直に聞いて置けばよかったな、と思った。「……まぁいいさ、こんなこともある」別に、もとから大金が欲しくてあんな酔っ払いの禅問答もどきに付き合っていたわけじゃない。――大人はこうやって、色々なことを誤魔化しながら生きていくのだ。

「ま、俺は自分の目指す本当のラーメンってやつの姿を、あらためて自分の頭に刻み込むことができた。それでいいのさ」

 これは本音だ。夏の夜、ラーメン星からやってきた酔っ払いのグラサン男からもらった贈り物。

「……ふーん」

 ……嬢ちゃん、そのニヤニヤ笑いはやめろ。

「まぁいいや、そういうことにしといたげる」

 しといてくれ。じゃないと、なんだか悲しくなってくるから。

 しばらくさっきのグラサンの話で盛り上がったあと、彼女は、小銭を置いて席を立った。

「ごちそうさま、バイバイ!」
 
 彼女はそう言って、振り向き、走り去った。

 ――そう。それでもやはり。

 その一言が、俺には何よりも愛しく。

 その一言で、俺には充分なのだ。
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